神之池といえば、神栖のシンボルとして多くの人で賑わう憩いの場となっていますが、鹿島開発前は現在の7倍以上の面積があり、実は1000年以上も前から暮らしの場として人々に親しまれてきた歴史があります。
今回はそんな神之池の歴史について紹介します。
神之池の歴史や昔話を知っておくと、訪れる楽しみがふくらむかもしれません。
“神栖”という名の由来
まずは名前の話から。神之池が初めて文献に登場したのは奈良時代で西暦700年代頃。
「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」の中で「寒田沼(さむたぬま)」と呼ばれた神之池が紹介されています。
その後、「降池」「業之池」「降野池」「神池」「神の池」へ。古代から地域のシンボルであったことに変わりはありません。
昭和30年には、神之池と息栖神社から「神栖村」の村名が付けられました。
舟が禁止された池
魚の目方を量る仲買人
江戸時代に大ききんに襲われた時、神之池に発生した不思議な藻を食べて人々が命をつなぎ、それ以降は「池に舟を入れると天罰が下る」と言い伝えられてきました。
しかし実際には、コイ、フナ、エビなどの乱獲を防ぐために舟を禁じ、筏(いかだ)で漁をしていたようです。
明治時代には養魚場としても有名になり、大正、昭和と舟による漁が盛んに行なわれました。
奈良時代からの農業用水
神之池の水は1000年以上前から農業用水として耕地を潤してきました。
江戸時代は水争いがたびたび起こりましたが、それだけ無くてはならない水だったといえます。
今も常陸利根川から汲み上げた水を貯め、何本もの用水路で水田に送り出す農業調整池として、神栖市の農業を支えています。
砂丘が見えた頃
当時の神之池と砂丘を再現したジオラマ(神栖市歴史民俗資料館)
当時の神之池を知る山本信三郎さんに、鹿島開発が行なわれる前の神之池の思い出を聞きました。
昔の神之池はおむすび型をしていました。漁で生計を立てている人もいましたが、子どもにとっては格好の遊び場。
私が子どもの頃 (昭和20年代後半~30年代中頃)は、よく水遊びをしたものです。当時は湧き水があり、水がとてもきれいでね。夏が近づくと何十メートルも池の水が引いて、遠浅の砂浜になった場所で遊んでいました。
忘れられないのは、神之池から遠くの鹿島砂丘が見渡せたこと。海からは4キロメートルも離れていますが、ここまで潮騒が届いたんですよ。砂丘へ遊びに行ったこともあります。
山本さんの心に焼き付いている「鹿島砂丘と神の池」の風景は、昭和25年に茨城百景に選ばれています。
鹿島開発で池が7分の1に
古来より親しまれた神之池(米軍による航空写真)
神之池の面積は7分の1に(1974年 国土地理院による航空写真)
鹿島開発に伴い、昭和42年から46年にかけて神之池の埋め立てが行なわれました。
海岸までベルトコンベアを敷いて砂を運んだので、”ベルコン通り”と呼ばれるようになったんです。神之池の面積は昔の7分の1になり、鹿島砂丘も姿を消しました。
当時のベルコン通りの様子
昭和48年には池の周辺が神之池緑地として整備され、池を一周できる遊歩道が完成。
ただし、現在のように樹木が育っておらず、木陰でくつろぐことができなかったようです。
それから約50年。徐々に整備されていきながら、現在も用水源として、また緑地公園として、いつでも誰でも心地の良い場としてその役割を果たしているのです。
(この記事は広報かみす2019年5月1日号の「まちの魅力再発見」から抜粋・加筆・修正し、掲載しています)
元の特集記事は以下をご参照ください。
2019年:広報かみす特集「まちの魅力再発見」 / 神栖市公式HP