半世紀にわたって鹿島臨海工業地帯の輸送を担っている神栖駅。
貨物専用のため一般の人はなかなか立ち入ることができず、地元でもあまり知られていません。
駅の役割や仕事、私たちの暮らしとの関わりなど、 その知られざる魅力に迫ります。
神栖市に駅?工業地帯の輸送を支える大動脈
鹿島臨海工業地帯の和田山緑地沿いに、たくさんのコンテナがずらりと並んでいる施設があります。
ここが神栖駅。
「えっ、市内に駅があるの?」と意外に思う人も多いのでは?
地元でもあまりなじみがないのは、神栖駅を行き交うのが「人」ではなく「物」だから。 そのため、プラットホームも券売機もありません。
いったい貨物専用の駅には何があり、どう使われているのでしょう。
神栖駅が誕生したのは、今から約50年前。鹿島開発に伴い、鹿島臨海工業地帯の原料や生産品を輸送するため1969年に鹿島臨海鉄道(株)が設立されたのが始まりです。
翌1970年、北鹿島駅(現在の鹿島サッカースタジアム駅)と奥野谷浜駅を結ぶ19.2kmの鹿島臨港線が営業を開始。中間にある神栖駅が、主要駅として重要な役割を担ってきました。
約50年の歴史、かつては旅客営業も
鹿島臨港線営業開始(1970年11月)
この50年を振り返ると、鹿島臨港線にとって1978年からの約5年間は特別な期間だったようです。
国からの要請で、当時、建設反対運動に揺れていた新東京国際空港(現在の成田国際空港)に航空燃料を輸送し、また鹿島神宮駅〜鹿島港南駅の間で旅客営業をしたという記録が残っています。
当時のエピソードを駅長の飛田浩一さんに聞きました。
神栖駅の飛田駅長
鹿島石油で航空燃料を積み、タンク車を最大18両連ねて空港へ輸送しました。
不測の事態に備え、機動隊が神栖駅に常駐し、時には駅の屋根に上って監視していたこともあります。しっかり守ってもらい、安心して働くことができました。
その頃に旅客営業をした鹿島港南駅のホームはもうありません。航空燃料輸送が終わった1983年に、旅客営業も廃止となっています。
ほんの数年間でも市内に旅客用の駅が点在していたと知り、当時の面影をたどってみたくなりましたが、残念ながら駅跡は残っていないようです。
貨車からコンテナ輸送への転換
新東京国際空港に航空燃料を輸送(1978年~1983年)
もう一つ、この50年での大きな変化は、貨車扱いからコンテナ扱いへ移行したことだと飛田駅長は言います。
貨車扱いというのは貨車を1両単位で貸し切って荷物を運ぶこと、コンテナ扱いというのは荷物をコンテナに入れて運ぶことです。
かつては工業地帯の各企業に専用の引き込み線が敷かれていて、貨車を乗り入れて荷物の積み降ろしをしました。
平成の初め頃からコンテナ扱いが増え、神栖駅と企業の間をトラックが行き来するようになります。
それに伴い企業の引き込み線は消え、その一方で神栖駅の荷さばき施設が大きくなりました。
コンテナには箱型とタンク型があり、神栖駅で目立つのはJR貨物のロゴが入ったえんじ色の箱型コンテナです。
見た目も大きさも同じコンテナを、どうやって目的地まで間違いなく運ぶのでしょう?
12フィート(約3.6m)のコンテナには約5トンの荷物が入り、それを1両に5個積み、最大15両編成で運びます。
目的地が全部同じではなく、九州へ行くもの、北海道へ行くものなどが乗り合わせています。それを、旅客列車の指定席のように JR貨物のシステム上で管理します。
JR貨物と鹿島臨海鉄道の輸送ネットワークがオンラインで結ばれており、どの駅で積み替えて、目的の駅に何時何分に到着するのか、コンテナの番号ですべて分かるようになっています。
列車が発車するまでには、緻密な計画と正確な作業が
コンテナの番号や固定状態などを一つ一つ指差し確認
貨物列車が発車するまでにどういう作業をするのか、教えてもらいました。
輸送ルートに基づいて、どのコンテナをどの順番で乗せるのか、列車の編成を決めるのが重要な仕事です。
荷物によってコンテナの重さが違い、時には空のコンテナを回送することもあるため、列車全体でバランスを取ることが安全走行に欠かせません。
構内での作業の様子を、特別に見せてもらいました。
最初に目に飛び込んできたのは大型のフォークリフト。
コンテナを決められた場所に正確に乗せる。
荷捌き施設のコンテナを持ち上げ、くるりと方向転換して列車ギリギリに近づき、数cm単位の正確さで決められた場所にピタリと乗せます。コンテナの重みで列車が一瞬沈むと同時に、緊締装置のロックがかかり、コンテナが列車に固定されます。
積み込みが終わると、駅員が2人1組となってコンテナの両側から1つ1つ確認していきます。コンテナの番号、固定状態、ドアの閉まり、封印など、たくさんのチェック項目を指差し確認。キビキビした動作で、作業が進められていました。
旧型と新型、合計3両の機関車
旧型 KRD形
新型 KRD64形
貨物列車を牽引する機関車は3両あります。導入時期は、
1979年 KRD形
2004年 KRD64形-1
2010年 KRD64形-2
です。
鉄道ファンに人気があるのは一番古い機関車で、このタイプは全国でも希少となりました。平成に導入した機関車は、加減速度や牽引力などの性能が向上し、燃費も良くなっています。
基本的に鉄道車両というのは受注生産で、座席の高さやハンドルの位置などさまざまな要望を受けて作られ、1~2年かけて完成します。
新車両は、製造工場からJRの機関車に引かれて運ばれてきます。その時、動力系はすべて取り外され、神栖駅に着いてから復元して走れる状態に戻します。そして構内で試運転をし、段階を踏んで本格的な運行が始まります。
新車両を迎える時は、みんな胸がワクワクするそう。全長約300mに及ぶ列車を引いて運転する仕事は、達成感が大きいそうです。
臨時旅客列車が走ることも
鹿島臨海鉄道の車両基地でもある。
神栖駅は、約6万9000㎡の敷地に16本もの線路が敷かれている大きな駅です。
鹿島臨海鉄道の車両基地であり、点検・整備の施設もあることから大洗鹿島線の列車の姿も見えます。新車両の安全祈願祭や出発式なども、神栖駅で行なわれます。
貨物列車の運行は平日のみ1日3往復。なかなか市内で目にする機会はありません。
そんな走る列車を見られる貴重なチャンスは、鹿島サッカースタジアム駅〜神栖駅間を往復する臨時旅客列車です。鹿島まつりに合わせて運行されることもあり、神栖駅にはホームがないので降りられませんが、毎回人気を呼んでいます 。
一番の願いは「安全」
車両の下からも入念に点検整備
飛田駅長は入社40年のベテラン。
仕事で一番大切にしていることを尋ねると、すかさず「安全が一番です」という力強い答えが返ってきました。
新入社員の頃は、指差確認を繰り返し指導され「なぜここまでやるのだろう?」と感じたこともあったとか。しかしすぐに、安全確認の習慣が身体に染みついたと言います。
一見、無駄に見える基本動作の多くは、過去の事例を教訓に事故防止のため作られたもの。気の緩みは大事故につながります。
列車運行の安全システムは進化していますが、それを生かすのは最終的に人の力。
機械は故障することもありますし、そもそも安全装置のスイッチを入れるのは人ですから、決められた手順を省略しないできちんとやり続けることが大切です。
貨物輸送のやりがいを尋ねると、
「発送した荷物がトラブルなく定刻通りにお客様に届けば、それが何よりです」
と答えてくれました。
近年、環境にやさしい輸送として、またトラックの長距離ドライバー不足を補うものとして、鉄道コンテナ輸送が見直されています。神栖駅はますます存在感を高めていくでしょう。
これから市内で踏切を渡るときは、神栖駅のことをちょっと思い浮かべてみてください。
全国各地へ貨物を届ける。
(この記事は広報かみす2021年4月1日号の「まちの魅力再発見」に加筆修正を加えて掲載しています。)
元の特集記事は以下をご参照ください。
広報かみす特集「まちの魅力再発見」 / 神栖市公式HP