利根川や常陸利根川が身近な神栖市に住む私たちは、日頃ごく当たり前に橋を渡って移動をしています。
今回は、まだ息栖大橋がなかった時代や、開通した当時の様子を知る皆さんに話を聞きました。
1本の橋によって暮らしやまちがどれほど変わっていったのでしょう?
身近な橋に秘められたストーリーを追いかけます。

橋長375メートルの息栖大橋。中洲を経て小見川大橋と合わせると全長約1.5キロメートルになる
農業も船に乗って
水と共に歩み、発展してきた神栖市。
歴史をさかのぼると、江戸時代の利根川は人や物資を運ぶ“水上の道”として重要な役割を果たしていました。
特に息栖河岸は、明治から大正にかけて高瀬舟、外輪蒸気船、遊覧船などが行き交い、地域の玄関口として賑わいました。
昭和に入ると渡船(とせん)が就航し、日常生活を送る上で対岸との結びつきが強いことから、渡船での往来が盛んになっていきます。
息栖の渡船場を間近に見ながら育った猿田善一さんは、昔は常陸利根川をさまざまな船が行き交っていたと教えてくれました。

中洲に水田が広がっていたので、船を持っている農家さんが多かったんです。うちでも、船に農業資材や農機具、時には牛を乗せて中洲に渡ったと母から聞いています。
魚やシジミも豊富なので、小型漁船で漁業もしていました。浅瀬や藻が多いところでは、竿(さお)で漕ぐ“ちゃんこ舟”で漁をする人もいましたね。

息栖と小見川をつなぐ渡船
猿田さんは、子どもの頃からよく渡船に乗っていたと言います。

小学3、4年生の頃には一人で乗ることもありました。渡船場の人も船長さんも乗客もみんな顔見知りで、家族的な雰囲気でしたね。
唯一心配だったのは、乗り遅れてしまうこと。帰りは最終便の1本前の便に、駆け足で乗り込んだものです。
中学生の頃に息栖大橋ができると聞いてとてもうれしく思う反面、渡船の廃止はやはり寂しく、本数を減らしてでも残してほしいという気持ちもありました。

完成前の息栖大橋と渡船
三代夫婦の渡り初め
昭和40年代は鹿島開発が進んで、まちが一気に発展した時期です。昭和44(1969)年に鹿島港が開港、昭和45(1970)年に神栖町が誕生、そして昭和48(1973)年に待望の息栖大橋(常陸利根川)が開通しました。

息栖大橋開通式(昭和48年8月1日)
息栖大橋DATA
- 橋長=375メートル
- 幅員=6.5メートル
- 小見川大橋(利根川)と合わせた全長=約1.5キロメートル(中洲の取付道路を含む)
8月1日の開通式では、三世代家族で参加の「三代夫婦」を先頭に鼓笛隊や招待者が渡り初めをおこない、橋の中央でテープカットや花束交換などのセレモニーが晴れやかに挙行されました。
三代夫婦として参加した大槻邦夫さん・婦美子さん夫妻に話を聞きました。

渡り初めは、三代夫婦にあやかって橋も永続してほしいという願いが込められているのだと思います。
息栖側から4〜5組が歩いて行き、橋の中央で小見川側から来た三代夫婦4〜5組と対面しました。
特に印象に残ったのは、1本の橋なのに千葉県側と茨城県側で形が違っていて、なぜ統一されなかったのかなと不思議に思ったことです。柵の高さも違って、小見川大橋は1メートル10センチあるのに息栖大橋は90センチしかありませんでした。
これでは高校生が自転車で渡るときに危ないと思い、申し出たところ、すぐに同じ高さに工事をしてくれました。

「三代夫婦」として渡り初めに参加した大槻家
まちも暮らしも一気に変わる
息栖大橋は、鹿島臨海工業地帯への通勤をはじめ、通学や東京との物流を支える大動脈となりました。
片岡光枝さんは、ちょうど橋が開通した年に新任教師として神栖高校に赴任し、変わりゆくまちの様子を見てきました。

私が赴任したのはまちが日々変化していく時期で、鹿島セントラルビルが完成したばかりのころです。
渡船が廃止される前に同僚と乗りに行ったり、工場夜景が珍しいと車でベルコン通りを走って見に行ったりもしました。
人口がどんどん増え、生徒数も多くて、1学年に8クラス、1クラスは約50人くらいで教室は満杯でした。
小見川町(現在の香取市)から自転車で通ってくる生徒もいて、風雨が強い日は大変だったと思います。根性がありましたね。

建設中の鹿島セントラルビル(昭和47年ごろ)

鹿島臨海工業地帯の夜景(昭和45年ごろ)
大槻さん夫妻は、さまざまな場面で息栖大橋の便利さを実感したと話します。

佐原第一高校(現在の佐原高校)に入学した従兄弟は、自転車、渡船、バス、電車を乗り継いで片道2〜3時間の通学は大変と、高校の近くにあったお寺に下宿をしていました。
渡船は水門を2つ通るので時間がかかるんです。橋ができてからは自宅から通学できるようになり、だいぶ変わりましたね。
また、以前は東京の親戚の家まで日帰りでは行けませんでしたが、今は片道1時間半で行き来できます。成田空港へは高速道路を使わず1時間未満で行けるので便利です。どれも息栖大橋ができたおかげですね。

通学で混み合う第八おみがわ丸(撮影:篠塚栄三)
息栖大橋が架かる前の息栖の渡船場周辺
渡船定期券
まちでは砂利道だった道路の舗装工事も進み、交通インフラがどんどん整備されていきました。
河畔で始まった花火大会
今ではまちの風物詩として定着した神栖花火大会ですが、その始まりは昭和48年に、息栖大橋の開通を祝って開催された祝賀花火大会でした。
片岡さんは見物客とは違う目的で初回から足を運んでいたそうです。

花火大会の夜は同僚と共に会場で生徒たちの様子を見回り、翌朝はボランティアの生徒や保護者と一緒にごみ拾いをしました。
当時はまだ出かける場所も少なかったので、持ち寄った料理を囲んで家族や仲間と花火大会を楽しむのが、地元の皆さんにとって一大イベントとなるような時代でした。
屋台もたくさん出て、大勢の人で賑わっていましたね。
その後、昭和62(1987)年に花火大会の会場が神之池緑地へ移転し、かみす舞っちゃげ祭りとの同時開催となりました。
また、令和7(2025)年には、神栖市市制施行20周年および第50回を記念して息栖神社周辺(常陸利根川河畔)で開催されました。

第50回を記念して息栖神社周辺で開催された神栖花火大会(令和7年11月22日)
この日は天候に恵まれ、約5万人が台船上から打ち上げられる花火を楽しみました。約50年前の花火大会を思い出しながら、懐かしく夜空を見上げた人もいるかもしれません。
第50回神栖花火大会の様子は、↓こちらの記事でご覧いただけます。
橋が物語る神栖の魅力
今回、息栖大橋についてたくさんの思い出話を聞く中で、橋は人と人、地域と地域を結ぶだけでなく、昔と今をつないでくれるように感じました。
最後に猿田さんが、改めて現在の船溜まりや常陸利根川を眺めながら話してくれました。

鹿島開発に伴い中心市街地が栄える一方で、息栖は取り残されたように感じることもありましたが、東国三社巡りのブームなどにより再び賑わいが戻ってきました。
神栖市は工業だけでなく歴史・文化も誇れる地域なのだと知ってもらえれば、まちの魅力にも厚みが増すと思います。この機会に少しずつ、常陸利根川沿いに目を向けてもらえるとうれしいですね。
普段何気なく渡っている橋も、その背景を知れば知るほど特別なものに見えてきます。橋は単なる構造物ではなく、地域のストーリーを次の世代へとつなぐ確かな架け橋となっています。

(この記事は広報かみす2026年5月1日号の「神栖ディスカバリーFile35」から抜粋・加筆・アレンジし掲載しています。広報紙は下記リンク先よりご覧いただけます。)
こちらの記事についての動画も公開しています。ぜひご覧ください。
● カミスミカcolumn
シンプルだけど主役の存在感「桁橋(けたばし)」
神栖市歴史民俗資料館によると、神栖市内で一番古い橋は、万葉集に出てくる苅野橋(かりのばし)だそうです。今では石碑と案内板だけが残っています。昔の橋は、川に木材の橋脚を建て、そこに橋桁(はしげた)を渡した「桁橋」というものでした。

石碑

案内板
やがて技術や材料が進化し、吊り橋や斜張橋(しゃちょうきょう)、トラス橋など橋の種類も増えていますが、今でも一番多いのは桁橋で、なんと日本にある橋の8割近くを占めていると言われています。
見た目はシンプルですが、まさに橋の原点であり、橋の世界では昔も今も主要な存在です。息栖大橋も桁橋で、アルファベットの「I」の字形に鉄板を組んで人や車が通る鈑桁(ばんげた)をつくり、それを橋台や橋脚で支える構造(鋼単純合成鈑桁)となっています。施工が容易、工期が短い、コストを抑えることができる、維持管理がしやすいなど、たくさんのメリットがあり、直線の橋を架けるときに真っ先に選ばれる種類です。
ちなみに、小見川大橋はランガー橋という種類で、6連アーチの優美な曲線がとても魅力的です。ただし、優美な装飾のように見えますが、実はアーチによって力を分散させて橋の強度を高める役割を担っています。
小見川大橋
息栖大橋それぞれの橋を渡る時は、ぜひ橋の種類や形に注目してみてください。息栖大橋と小見川大橋、まったく印象が違う2種類の橋を渡れるので新たな発見があるかも!?





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